Mitscoの生い立ち

最近の思うことを、書きとめていますが、「キリスト教」のことが多いので、初めてこのブログを読んでくれる人にとっては、ちょっと引いてしまうかな~と、感じています。

なので、ちょっと私の生い立ちを少しだけお話したいと思います。

私は、埼玉県の旧大宮市に生まれ育ち、家族は「クリスチャンホーム」と呼ばれる家で育ちました。三人兄弟の末娘で、それは「可愛がられ」て育ちました。甘えたい放題、一番小さいからと、もう好きにやってくれの感覚で来た気がします。

毎週日曜日は、日曜礼拝へ行きました。子ども用の礼拝もありましたから、教会学校と呼ばれる小学生用の礼拝に参加していました。

神様を信じていたのかというと、分かりません。ただ親や周りの教会の人が神様のお話や、聖書の話(おとぎ話のよう)を話し聞かせていたので、信じてなくても信じている雰囲気を出さないとです。

結局、なんとなく続いた教会へ、ずっと続けていきました。高校生の時は、イエス様が自分のために救ってくださったと信じて、洗礼も受けました。

私の葛藤は、そこから始まりました。

教会の世界と、世の世界が、全く違うものであり、自分の中にそれぞれ使いわける『顔』があることに気づいたのです。

そして、家族でいる自分、一人でいる自分、教会の中にいる自分、学校へ行っている自分、全部違うのです。

真面目一本で来たので、そうやって使いわけてる顔が、自分が本当に嫌になりました。

アメリカへ思いをはせる

当時は、そんな自分に嫌気があるのにも関わらず、家族のせいだ、社会のせいだ、あげくには日本という国家のせいだと、話が大きくなってしまい、誰に対しても不信の念と、『なぜ自分は日本人として生まれたのか』と、責めるばかりでした。

4歳のころから習っていたピアノが、大好きだったので、ピアノを弾きながら世界へ行きたいなど、漠然と夢を抱いたのもその時でした。

そんな中、アメリカハリウッドの映画を見る機会がたくさんあり、(親戚の叔父がコレクションで、たくさん集めていたので)、映画見たい放題で、アメリカへの夢が広がっていきました。

日本から出たい、という思いは、日々強くなり、見る映像や情報取集は、アメリカの文化や英語ばかりでした。

そんな中学、高校時代を過ごす私は、街歩く外国人を見ては、追いかけて行って、話しかけるという、普通の学生とはちょっと違うものでした。

当時の私を知る友人や親せきの人は、私が今国際結婚をしていることに、納得いくようです。

なので、教会だ、神様だ、などは、ほとんど見向きもせず、映画や音楽で、頭の中が洗脳されていきました。

18歳でアメリカへ

いよいよ高校を卒業して、アメリカへ行くチャンスがやってきました。

長年、といっても6年くらい学生のころから夢を見た、アメリカ留学です。親も渋々、行かせてくれました。

3月に日本の高校を卒業し、5月にアメリカへ向かいました。向こうで始まるサマークラスに参加するためです。

はじめに行った学校は、カトリック系のスクールでした。

チャペルやあらゆるところに、マリア様像がいて、少し怖かったのを覚えています。銅像や絵画に向かって、お祈りするって、どうなの?と、思いながら、ミサへは一回も行きませんでした。

初めてのアメリカは、映画で見たものとは、全く異なり、愕然として、英語も分からないまま、泣きに泣いたのです。

自分の思いあがりと、自分の弱さ、そして親や教会をバカにしてきた自分。

すべてから逃げたいと思ってアメリカへ来たのに、すべての問題を見せられてしまったのですから。

もう、そこには、神様へお祈りするしかありません。夕日を見ては、泣き、食事をしては、泣き。

ホームシックは、日に日に増すばかりでした。

ただ、大きな事を自分の口で言ってきたので、泣いて帰るわけにはいかないのです。

その年の9月に、別のプロテスタントの学校へ入り、そこで本当に腰を据えて音楽を勉強することになりました。

続く

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