弱さの中に働かれている神様
聖書のみことば
誇る必要があるなら、私の弱さを誇りましょう。
コリントへの手紙第二11章30節
自分の弱さ、自分の力のなさ、自分に対する甘さ、などなどあげればきりがありません。
この手紙を書いたパウロは、自分の弱さを誇りましょう、と、普通に生活していたら、まったく逆のことをいっています。
昨日は、チーズケーキを焼いたのですが、生クリームを入れ忘れて、ただのクリームチーズにお砂糖入ってしまいました的な、ケーキが仕上がりました。
大失敗です。問題は、その後です。
私は、自分の失敗を許せずに、なんどもなんども、『自分のボケ、バカ!』と言って、うなだれました…
私は、失敗きらいな負けず嫌いなのです。
一番は、家族の笑顔が見たかったのに、家族にも心配をかけ、私の雰囲気が悪いので、子供たちもママを元気づけようと、必死です。
もう、そんな自分も嫌だったので、おいしいスイーツ食べにカフェへ行きました。
久々のチョコチャンクスコーン~。最高でした。
しかし、息子が目の前で、自分の飲んでいるチャイラテを、バシャーーんと、やってもうた…。
隣に座っている外人さんの足に、思いきりこぼしました。
急いで店員さんをよんで、床も机も拭いてもらいましたが。
何度も外人さんへ、私と息子があやまっているのに、知らんぷりです。
店員さんも足元を拭きたいから、謝って拭いていいるのですが、一向に読んでいる本から目をそらしません。
まだ、途中のカフェタイムでしたが、もうそこにすわるのも気まずいので、帰りました。
そんな一日をすごしたのですが。
すべてはもう神様のご計画の中にあると、思い、あのカフェにずっといたらいけないよ、というメッセージをもらったかのように、気分よく帰りました。
人には気づけない、見えない存在があると思うから、私はあまり悪的な雰囲気を好みません。
弱さの中に働かれる神様
私は、本当に怖がりで、臆病です。
しかし、アメリカに5年住んで、東京近郊でOLして10年、そして結婚ドイツに5年、その後未知の北海道に住んで、もう間もなく10年が経とうとしています。
地元のさいたまは、大好きだし、離れたくなかったけれど、いつも『ここの場所にはずっといられない』という思いがありました。
人も土地も、なんだかせわしなく、お互いが争い、一番になるための雰囲気があったのかもしれません。
北海道は、色々と開拓が進んでいますが、元々住んでいる日本人の方々は、ほのぼのしていて大好きです。
何が言いたいかというと、私は遊牧民のように、あちらこちらを転々としていて、地域の人になりきるための努力をしてきました。
そうしないと、そこで生きていくことは本当に大変だからです。
自分のプライドがあると、地元民になりきることは難しいのです。なぜなら、自我が強いと、手放さないといけないことが増えるから。
ド田舎で、洋服も変える場所がないところで、どうやって自分のセンスを生かしたファッションを楽しめるのか?
言葉も分からず、すべて量り売りのスーパーで、どうやって自分の好きな食材を手に入れられるのか?
女性が楽しめるおしゃべりを、そこの土地のことを知らずして、どうやっておしゃべりできるのか?
すべて、自分のプライドを捨てて、その地元の人と一緒に同じ視点でやっていかないと、出来ないことなのではないでしょうか。
自分の誇りは自分の弱さ
色々な国を経験して、色々な会社も経験して、色々な人たちとコミュニケーションを図って、自分がやってきたこと、出来てきたことには、誰にも詳細を話せません。
なぜなら、それは神様の介入があり、助けてくれたからです。
自分がそうやって地元の人と一緒に色々な活動ができたことは、自分が弱いから、神様の導きがないと、どこまでもできないと、知っているからです。
それだけど、神様さえも見えなくなって、自我を通すことは、本当にどん底に落ちるときです。
神様は、自分の弱さに働かれる存在と、今でも教えられています。
ケーキの失敗から、カフェでの出来事、そして毎日押し寄せる心配事。
すべて一緒に、守って意味あるものとしてくださるのです。
だから24時間、神様を想って、日々起きることに動じず恐れず、ただ与えられている仕事を全うするほかありません。
解決方法は、自分の心がすでに知っている
色々な選択が迫られる母親業ですが、小さな選択も大きなものも、すでに自分の心が答えを出していると思うのです。
素直な視点で物や人を見つめていると、他人のあらとか悪い物とかも、見えて来るでしょう。
これは、自分の心を清めなさいよ。神様に助けて頂きなさいよ、とメッセージなんだと思うのです。
他人の悪いことを見る前に、自分の罪を悔い改めることを、神様から教えられているからです。
神様が愛してやまない私を、私は愛することができるのか。
すべての問題は、神様を心から知れるように、用意されているものでしょう。
だから、落ち込んで立ち直ったら、自分と同じ苦しみの中にいる人を助けたいと、思うのです。
このブログは、そんな人を助けたいという思いから、書いています。
神様のみこころを知って、それを行動に移すことほど、幸せな仕事はありません。
失敗しても、嫌な状況にあっても、大丈夫。
自分の弱さであるための経験は、神様のみこころを知るためなのです。
今日も、だからこそ、神様のみ手の中で、素敵な日をお送りください。