「目からうろこ」は、光を見るためにある

起き上がれ。自分の足で立て。

私があなたに現れたのは、あなたが私を見たこと、そして、これから私が示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。

私はあなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。

それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らが私への信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に相続にあずかるようになるためである。

使徒言行録26:16-18

今日の聖書のみ言葉も、すごい励まされました。

自分の中にある、考え方の「癖」があり、凝り固まった考えがあります。それが、保守的で、他人を批判したりする、意地の悪いものだったりします。

人を批判したら、その物差しで、自分も批判される、ということは、頭では分かっているのですが、どうしても考え方に「癖」が定着していて、それをやわらかくすることが、難しいのです。

その「癖」で、見えるはずのものが、見えなかったり、悟れるはずのものが、分からずに素通りしてしまったりするのです。

神様は、このみ言葉を、使徒パウロが改心するときに、おっしゃりました。

神様は、たとえ自身への反逆者であったとしても、その人を選び、その人を任命されます。

その人の目が覚め、闇の中の歩みから、光の中へ、導くためだと、書いてあります。

パウロは、その直後に目が見えなくなり、他の信徒が神様から言葉を遣わされ、祈りと共に、「目からうろこのようなものが出た」と同時に、目が見えるようになりました。

これも、一つのシンボルと思います。

私も、神様の信仰を試されるために、一時的(かなりの年数ですが)に、目がふさがれて、神様を悟れず、み言葉を聞けず、祈れない時がありました。

けれども、少しずつ、それが分かりつつあり、そして凝り固まっている考えを改めるように、教えていただいているのです。

闇の中から、光の中を歩く、って一体どんなものでしょう。

きっと、手探りの歩みではなく、隠れることなく、まっすぐ前が見える状態で、足元にも光があり、目の前の光の道を歩けばいい、と思うのです。

しかも、自分の足でしっかり歩きなさいと、おっしゃりました。

それも、力が入らないときは、無理です。

心がやられていたら、もう寝るしかありません。体に力が入らないのですから。

でも、自分に与えられた信仰があり、それを信じれる者ならば、歩けるのです。

神様がいてくれる、それだけで、力がみなぎってくるのです。

すごいですよね。

今日も、明日も、毎日成長させていただけるのです。

書いていたら、すごいお恵みを感じて、涙があふれてきます。

神様、ありがとう。

今日も本気で、主のために生きていきます。

このブログを読んでくださった、お一人一人に、神様の大きなお恵みがありますように。

Have a nice day!

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