Mitscoの生い立ち~その4

今のダンナさんと出会ったきっかけは、教会でオルガン奏楽者として奉仕しているときでした。

平日は、もちろん会社に勤めて、土日を使ってオルガンを練習して、日曜日の礼拝でオルガン奏楽をしていました。

自分一人になる時間が好きだけど、なんだか寂しくて、その思いをかき消すかのように、オルガンに集中しました。

気づけば30歳も過ぎ、一人暮らしをして、とにかくオルガン、そしてアパートで電子ピアノを使って指の練習に励んだ記憶があります。

周りの友達は、どんどんと結婚・出産し、ただ自分だけ取り残された思いがあったのです。

オルガンに魅せられて

奉仕していた教会が、新しく建て直すことになり、パイプオルガンも新しく購入することになりました。

2段鍵盤、ストップ数もかなり増えて14個。

色々な曲が弾けるようになります。そして、色々な音色で讃美歌も歌えます!

そんな中、そのオルガンを建てる人がドイツから見えました。

その人は、以前から何度かこの古い小さなオルガンを調律しに来られていて、知っている人でした。

彼は、私から見たら、深い知識を持って、オルガンを造り、音を造っている人だと思いました。(今もですが)

私は、ただオルガンの音がききたくて、どんな風にオルガンを造るのか、どんな風に音が出来上がるのか、ただ興味があり、英語ができることから、彼にインタビューばかりしていきました。

そんな中。彼は、『自分のやりたい事があれば、それをした方がいいよ』と、何気なく私に一言言ったのです。

前から興味があった、ドイツへオルガン留学。そのことを話してみました。

『一度、ドイツに来て、その国が好きかどうか、見た方が良いよ』と。

私は、その言葉を信じて、ドイツへ2週間ほど滞在をしました。

深い歴史と、文化、そして人からでるオーラが、一瞬で好きになりました。

オルガンで、頑張って、ドイツに行って、出来るならドイツにそのまま住みたい!そんな想いを抱えて、ドイツから帰ったのを思い出します。

日本の社会や、社会人として生活している自分に、嫌気がさし、自分の持っている音楽への感性も、このままの生活を続けたら無くなってしまう、と勝手に思ったからです。

いわゆる、10代のころ、アメリカへ行きたいと願ったときと、同じ気持ちでした。

日本からはなれたい。日本人として生きていきたくない。

そんな想いは、結局海外へ行けば、日本シックになるのは、分かっていることです。

ドイツへの想いでいっぱいになる

そこからドイツ語の勉強を始めました。会社を辞めて、毎日図書館へ行き、独学でドイツ語を勉強しました。

結局、集中できた期間は、短く、時間だけ過ぎていきました。

そんな中また、ドイツ人のオルガンビルダーが教会に来ました。

『なんか、ドイツ語しゃべってみて』と聞かれたので、

『ブンダーシューーン』(すばらしい)と回答して、

大爆笑されました。

『え?それだけしか話せないの?』

『…』

ドイツ語ができなくても、オルガンへの想いは変わらないと伝えて、練習してきた曲を全部聴いてもらいました。

ドイツへ結婚へ

いつの間にか、会話が弾み、時間が経つのを忘れてしまい、

次の日も、その次の日も、彼と話したいという思いが、ますます強くなっていきました。

気がつけば、お互いずっと一緒にいたい存在と分かり、

家族の反対を押し切って、誰にも言わず家を出て、

何も分からないドイツへ行ったのです。

成田空港で、旅券を手にする自分の手の震えが止まらなかったのを思い出します。

私、33歳。

まだまだ若かった。家族への感謝の念と、家族への裏切りの念が、戦って、ドイツへ来れて幸せな気持ちより、後悔の気持ちが勝り、想像していた『結婚』が、現実とかけ離れたものとなりました。

そんな中、1人目を妊娠・出産。

ドイツ語が分からないまま、マタニティ教室へ行ったり、エクササイズしたり。

食料買うだけでも、向こうは全部量り売りなので、何をどれくらいほしいのか、はっきり伝えないといけません。

お母さんになるんだから、しっかりしないとだめだよ。

そう、自分に言い聞かせて、生活しました。

オルガンビルダーの彼は、とにかく忙しくて、日中はほとんど家に居なくて、夜もコンサートがあれば調律だなんだで留守がちでした。

とにかく私は、ドイツ語を勉強したいのに、妊娠中は忘れっぽくなり、さっぱり分かりませんでした。

出産した病院で、無視される

日本人だから、ドイツ語話せないからと、色々な場所で、注目をあびました。

ドイツ人は英語も話せるくせに、田舎だったので、だれも英語を話してくれませんでした。

日本でも、中高生は英語を勉強しているのに、英語を話せないのと一緒ですね。

シャイなんでしょうか。英語は聞き取れるのに、話そうとしてくれません。

出産した病院でも、赤ちゃんのお風呂の時間、食事の時間、一切教えてくれませんでした。

仕事を終えて病院に来た彼が、後から教えてくれるのでした。

それでも、食らいついて、ドイツ人に抵抗していった自分を思い出します。

『あーせんべい食べたい』

それが口癖でした。

日本食がまったく食べられない中、コーヒーとパンを目の前に、せんべいをムサボリ食う自分を想像しました。

神様は、そんな私でも、耐えられる試練をくださり、

ド田舎なのに、日本人なんて一人もいない場所なのに、

なぜか、近所に1人だけ日本人が住んでいたのです。出会いは突然にありました。

散歩していたら、彼女が歩いていたのです。しかも、彼女は2人の男の子をシングルで育てていたのです。

日本語~、聞ける話せる、この安心感は、他には味わえません。

しかも彼女は、子育ての先輩~。授乳のこと、おむつのこと、月齢の成長のこと、色々気になる事を教えてくれました。そして、彼女からも二人の息子さんへピアノを教えてほしいと、私に依頼してくれたのです。

嬉しかった~。

それがきっかけで、他の近所の子供たちへもピアノを教えることになり、日本に帰国してからも、ピアノ講師として働くきっかけとなったのです。

続く

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