Mitscoの生い立ち~その3
24歳で日本に帰国、新卒なのに中途採用で職探し
アメリカ留学を終え帰国したのが、5月末のことでした。
日本とアメリカは、卒業時が異なり、6月から就職先を決めなくてはいけませんでした。
右も左も分からないまま、『とらばーゆ』という雑誌をながめながら、中途採用の職探しばかりで、
一体自分は、なんのために音楽を勉強してきたのかさえ、分からなくなりました。
家族は、とにかくゆっくり休んで、やりたいことを見つけたらいいよ。と、優しく言ってくれましたが、
家にじっとしているほど、残されている感が半端なかったのを覚えています。
しかも、パイプオルガンで卒業した私は、自宅にあるのがピアノのみ。
教会へ行けば、パイプオルガンがありますが、一段鍵盤とペダルのみ。しかも、16フィートはないので、8フィートと4フィートのストップで、ペダルの表現もできないオルガンだったのです。
アメリカで弾けていた曲が、日本では弾けなくなってしまったのです。
オルガンを触れるためには、それなりの名声や地位が、必要なようで、東京には有り余るほどのパイプオルガンがあるのに、アメリカ・インディアナ州の小さなクリスチャン大学を卒業した24歳の若者には、もちろん信用してもらえず、パイプオルガンなんて触らせてはもらえません。
とりあえず、と思って職に就いたが
オルガンが弾きたくて、ただその思いで、バイトをしたり、正社員になったりしましたが、結局は長続きしませんでした。
アメリカの自分の大学で弾いていた時のオルガンが、恋しくて、そして最後には、『なんで、日本に戻ってきちゃったんだろう。アメリカへ戻りたい』
そんな言葉を毎日思いめぐらしていました。
そうなると、日本人の嫌な部分、日本の重たい雰囲気を読んで行動するという部分が、特にいやになりました。
『もう一度、大学に入り直して、ビザ取って、そのままアメリカで就職して、もう一生日本には帰らないように、計画しようか』と、考えて、働きました。
結局、時間だけ過ぎて、お給料をもらっても、ストレスからくる買い物癖に走り、なんも貯金ができない状態になりました。
そうだ!結婚!と思って
色々な男性とおしゃべりを楽しみましたが、前にお付き合いした男性のことが忘れられず、結局『恋愛』という時間どろぼうに、やられてしまいました。
社会経験は、とても重要だった
しかし、そんな長続きしない職歴をたくさん持っていても、俗に『転職族』という部類になっても、色々な会社に毎回正社員で採用されたのは、自分の中にある経験があったからだと思うのです。
まずは、英語が話せることが武器になったこと。
そして、良く社長さんたちに言われましたが、私には目力があるそうで、一般の20歳代の若者とは、話し方も考え方も違うと、言われました。
アメリカでつちかったオーラが出ていたのでしょうか。とにかく、面接試験を受けたら、必ず採用を頂きました。
そして、社長に気に入られて、公私混同されて、退職にいたる…というサイクルでした。
社長さんに気に入られることは、本当に勉強になりました。
なぜ社長さんになれたかを、生きた証としてお話を聞けるからです。
社長同行でイタリアへ
この記憶は今でも本当に忘れません。
英語がまったくできない、おじさんたち(2社の社長お二人)をイタリアで開催されるブックフェアに連れて行かなくてはいけないというミッションです。
社長のホテルは、一流で、私も一応そのフロアに部屋を予約してもらいました。しかし、ホテル側のミスで、社長たちの部屋が一般的なもので、私だけスイートルームになっていたのです。
社長お二人は、怒っていましたが、私は悠々とリラックスして過ごしたのです。
その旅程も、本当にハプニングだらけだったのですが、行く先々に出会うイタリア人が本当に陽気で面白くって、大企業の社長2名が、私を盛り上げてくれたような気がします。
連れて行った先のワイン屋で、店員のおじさんから、キスされまくりの、個人電話番号もらい、社長への通訳どころかサービス満載になってしまったこと。
ホテルのロビーで、社長のバッグが盗難にあい、警察よんでも、被害届をだすだけで、なんもならなかったこと。
レストランで、メニューが全部イタリア語で、社長たちお手上げの中、『あなたの食べたいものに合わせるよ』と言われ、好きな物ガツガツ食べられたこと。
社長が買った高級時計(社長の彼女へのおみやげ)を、私にさせて、成田の税関を素通りしようと考えた社長。私がそんな悪は、したくないと、申し上げたら、きちんと税関で申告していたこと。
なんだか、社長たちが本当に私の言動で、動いてくれたのです。
外国へ行けば、日本で偉そうな顔をしている人たちも、ただの人。(爆)
悩んでいても、その日与えられた笑顔がある
私は、日本が嫌いでアメリカへ戻りたくて、帰国後10年くらい悩みました。
本当にどうやったら、またアメリカへ行き、オルガンを弾けるようになれるのか。
そのためには、お金がないといけないし、自分の精神力も高めなくてはなりません。
しかし、日本の企業で働くことで、自分という人物が見えてきたのです。
そうやっていくことで、日常が大事であることに気づきました。
アメリカへの思いは、単なる自分の逃げだったと、今は思うのです。
その日その時、面白話はたくさんありました。しかも、いつも自分の都合の良いように物事が運ばれるのです。
そこに、神様の存在があるとしか、考えられません。
たまたま、そうなった。とか、
しょうがないから最後のくじを選んだら、良かった。とか。
色々な小さな選択は、自分の人生にとって大きな選択だったのです。
アメリカの大学へ行き直ししなくて、本当によかった。
そんな中、今のダンナさんに出会うのです。
続く