心の暗闇がクリアになっていること
今日の五稜郭公園。
晴れたり、曇ったり、湿気もあり蒸し暑い日です。
35℃はあったと思います。高速道路を車で走っていると、現在の温度と路面の温度が表示されていますが、
本日は、気温35度、路面温度54度だった。。。
びっくり。燃えちゃうよね。ここ北海道だよ。
本日のサムは、いつも通りご機嫌散歩。
北海道は、アジサイもきれいです。
北海道でしか見たことのない、エゾアジサイも。
↑これが満開なのですよ。かわいいよね。
初めて見たときは、いつ満開なるのかな?とじっと観察してみたけど、このまま枯れて行ったので、不思議でした。
このお花の名前が分からないのですが、縦長に真っ直ぐ伸びた木?に、きれいに咲いています。
この木も2メートルくらいなのです。だから木というのか?それとも、違う言い方があるのかも。
サムの散歩で、色々な自然に出会えるのですが、それも自分が落ち込んでいるときには、目に入りません。
自分の心の暗闇にとっぷり入ると、自然が目に入らないのですよ。
今日は、久しぶりに写真を撮ってみたけれど、最近は全然写真も撮る気すら起きなかったのです。
『神様、どうかこの自分の心の暗闇を取り去ってください。
何をどうしていけばいいのか分かりません。
ただ、自分の心が神様のお心と近くにすることができますように』と
毎日祈るばかりです。
イエス様が最後の晩餐の時、弟子たちの足を洗いました。
弟子のペトロは、言いました。
「私の足など、決して洗わないでください」というと、
イエスは、「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもなくなる」とお答えになった。
シモン・ペトロは言った。
「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
イエスは言われた。
「すでに体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。
ヨハネによる福音書13章8節から10節
これ、私も同じことを言っている気がしました。
私は、罪が重くて、罪を悔い改めても決して清くなれないと思っているところがあって、
自分の出来ないこと、自分の行動のなさ、すべて責めてしまう「癖」があるのです。
神様に申し訳ないと思って、それで落ち込んで、悔い改めても、また次のお祈りで同じように悔い改めて、悔い改めて…
のお祈りばかりをしてました。
自分の罪が、神様との間を遠くさせていると思い込み、ただ悔い改めてのお祈り。
このペトロの言動を見る時、私は自分で清くなっていないと思い込み、次から次へ「ここも清めて、あれも清めて」と、
祈りが「清めてください」の祈りばかりになっていたのです。
いわゆる、欲張りちゃん。
罪は毎日、「垢」のように出ると、Raptさんはおっしゃっています。
だから毎日の悔い改めは必要なのですが、神様のお心を考えるとき、祈りがどこまでも「ごめんなさい」ばかりで、うんざりしないかなと思ったのです。
神様のお心を行えるように、神様のお考えを少しでも、自分の体を使ってできるのであるかを、真剣に探し求めなくてはならないのに。
私は、ペトロのように、ただ何も考えずに、清くしていただきたいと、自分中心の考えでいたのです。
腰に帯びをしめ、いつも目を覚ましていなさい。と、新約聖書に書かれています。
これが一体どういう意味があるのか。
それは、本当にいつも集中して、神様のお考えと自分の考えが一致できるように努力することなんだと、やっとわかってきました。
神様だったら、どんな反応するかな。
と、考えるようになりました。
イエス様が横にいたら、どんな風に立ち振る舞いするかな。
きっと猫背じゃなくて、洋服もキチンとして、家の中も清潔にして、食べ物も栄養あるように考えて、
色々やってみるようになりました。
最近、「私が作る食事を清めてください。」のお祈りが聞かれているのが分かりました。
体重が少し減り、お肌もなんだかよくなってきています。
家で作る食事が一番なんだと、本当に心から思いました。
子供たちも、夫も、野菜たっぷりの食事が体に合うようで、元気になってきているのが分かります。
こうやって、神様は私の生活に介入し、すべてを通して教え、悟らせてくださっています。
少しずつ変わってる。
ありがとうございます。