裁く方は神様お一人です
聖書のみ言葉
こういうわけですから
人は私たちキリストに仕える者
神の秘儀の管理者と考えるべきです。
この場合、
管理者に求められるのは
忠実であることです。
あなた方に裁かれようと、
人間の法廷で裁かれようと、
私は何ら意にしません。
私は、
自分で自分を裁くことすらしません。
私には
少しもやましいことはありませんが、
それで義とされているわけではありません。
私を裁く方は主です。
ですから、
主が来られるまでは
何事についても
先走って裁いてはいけません。
主は、
闇に隠れたことを明るみに出し、
人の心のはかりごとをも
明らかにされます。
その時には
神からそれぞれ誉れを受けるでしょう。
第一コリントへの手紙4章1節から5節
裁きあってしまう人たち
どうしても、何をしていても、自分の思い通りにいかないと、自分を正当化してしまって、他人のせいにしてしまう自分がいます。
これは、どうあがいても、自分の気分が本当に悪くなる。
そして、その気持ちをほおっておくと、腐りかかって、その他人に対して、吐き気がするほど、嫌いになってしまう時もあるのです。
私は、よく一般的に「やさしい」とか、「一緒にいると安心する」とか、言われる人ですが、
他人によく利用されることもあります。
愚痴のはけ口になってあげたり、自分の時間をその他人にささげてしまい、自分の生きるエネルギーさえなくなっていた…という経験も、多々あります。
なぜなら、私は、他人に裁かれたくないから!という、本当に弱い者なのです。
人が喜ぶ顔を見ると、自分もうれしくなり、他人に対してもっと優しく接すると、自分もなんだか満足する、という気持ちが好きだからです。
でも。
それは、「自分を愛することへの行為」から逃げていると気づくのです。
自分を大事に大切に、そして自分の心や魂と、向き合えずに、他人の救いを願えるでしょうか?
それは、錯覚ですぎないのです。
裁く方は、神だと、聖書では言っています。
しかも、過去も将来も、上の者も下の者も、すべて明るみに出される、ということなのです。
私は、自分の他人を助けることで、自分を救おうとしていた行為に、愕然とただ、立ちすくむのです。
なぜなら、ひざを抱えて、座り込み、泣きじゃくる自分が、心の中にいるからです。
だからこそ、魂(Soul)が救われるように祈るしかない
そこには、魂を救ってくださる方がおられるのです。
長い間、聖書を読んでいても、信仰を守っていても、自分のように魂が救われていない者がいるのです。
それは、聖書のみことばをよく理解していないで、自分勝手な考えで物事を判断するからです。
将来も過去も、裁かれている神がおられるのであれば、私はただ神の言葉である「聖書」にすがりついて、その理解をいただけるように、お祈りするしかありません。
自分の魂が、本当の意味で神様と同じようになり、他人と接することができたら、どれほどの気持ちが楽になることでしょう。
私は、ただ人に合わせて、その人の気持ちを理解してあげようとしますが、結局自分の中にある穴は、神様のご愛でしか埋められないということ。
そう。
自分の時間を持つということは、自分の魂に神様からの霊を受ける、と言うことなのです。
そこから、本当のキリスト者とは、成長させていただけるのだと思うのです。
み言葉を十分に読み、深い理解を得ること。
これは、お祈りによってでしか得られません。理解できる人は、本当に少数なのです。
もう、キリストの再臨の時間が迫ってきています。
今日という日が、もう帰ってこないことは、分かっているはずです。
だからこそ、今日を本気で、神様のみ言葉に聞き、神様のみ言葉通りに「愛」を全うしていきたいと、心から祈るのです。
社会全体が同調圧力でしかない
私は、色々な場所に住み、色々な人たちと、コミュニケーションを図ってきましたが、
結局「仲間」になれない人を、排除するのが、人間です。
自分と同じ考えを持たないと、排除するのです。
人から出る考えとは、結局、支配する罪なのです。人を良いように支配できたら、社会全体が楽ちんですから。
私たち一人ひとりを、造られた神様への反逆としか思えません。
社会が、本当におかしいと、気付いている人は、多いと思うのです。
その中で、真実は、聖書の神様しかないのです。
神様のみことばが、人の魂を救い、人の考えに勝るのです。
だから、一人ひとりが真実に気づくことを、お祈りします。
真実に気づいて、救われますように。
RAPTさんのブログを読んで、私の魂は、もう一度神様を信じることで、救われました。
日本の教会が本当に今、おかしくなってしまったことに、一人ひとりが気づいてほしいと、心から願っています。
神様が本当に、私たちを愛し、守り、そして義の道へ導かれようとされていること。そして、もう時間がないということ。だから、ここに書かざるを得ないのです。
今日も大切に、素敵な日を。